カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
エマニュエル・ポポン神父
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愛を支える節制
私は待降節に入ると降誕祭、つまりクリスマスを祝うことを首を長くして待つのに、四旬節に復活祭を祝うことをそんなに楽しみにしていません。
祝いたくないというわけではないのです。
子どもの頃、クリスマスが一番楽しかったのですが、信仰を真剣に捉えるようになってからは復活祭が一番の祭日になりました。
とは言え、教会を考えると、待降節と違って、四旬節が大事にされていることがわかります。
この時期になると節制、犠牲、努力、と言う言葉が会話の中でよく出てきます。
待降節はクリスマスの喜びの準備として受け取られているに対して、四旬節は同じく復活祭の喜びに向かわれているでしょうか。
何のために節制を行うのでしょう。
確かに節制することには深い意味があります。まず神の息吹に敏感になるためです。
いつもの欲望の執着から自由になるために節制します。
また、自分の心を振り返ることもできます。
正直に自分と向き合って、その自分を神様に委ねていくのです。
そして節制の意味のもう一つは、イエスの道を力強く歩むためです。
自分にとってイエスの道が本当に大切であることを確認してから、覚悟を持って歩むために、節制が必要になります。
必要になると言うより、自然に節制することになります。
イエスの道を歩むために節制は欠かせないものになるからです。
そう言ったら、キリスト教は厳しいと思われるかもしれません。
それは節制に必要な努力と忍耐しか考えないからでしょう。
節制をする前に、その目標を立てなければそうなってしまいます。
家族を作ることに例えてみましょう。
家族の生活、子どもの教育によっていろいろ節制することになります。
自分の思いを犠牲にする事もあるでしょう。しかし、ある程度やりがいがあります。
家族を養う中で、子どもが心強く成長したりもするでしょう。
節制は我慢と同じです。
我慢と同じように、我慢する理由が見えなくなってしまうと、むなしく感じてしまいます。
四旬節の節制、さらに信仰生活の、この世に対しての節制も同様です。
信仰生活に頑張る理由がなければむなしくなり、逆に失望を感じてしまいます。
そうならないように、喜びをもたらす信仰に入ったことを改めて思い返し、考える時期が必要です。
四旬節はそういう時期なのです。
なぜ信仰に入ったのでしょう。
イエスの言葉に信頼をおいて生きることができるかどうか。
節制によって自分の心に語ってくださる神様のいぶきを感じ、信仰を確かめて、力強くイエスにしたがっていくことを決心するのです。
そうすればきっと節制は復活祭の喜びを迎えることになります。
イエスは私たちの暗闇を分かち合い、節制をしながら苦労し、私たちのために神の国の喜びを伝え現してくださいました。
イエスとともに歩む人は消えない喜びに向かっているのです。
この約束された喜びが私たちの信仰を支えています。
イエスが示した愛は私たちの生きがいです。
その愛の力、そしてイエスを信じるのです。
その愛と喜びが、生活の悩みと忙しさに奪いとらわれないために節制しましょう。
私たちの節制は愛と喜びを憎むものではなく、むしろ愛と喜びを備えるものでありますように。
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