カトリック神戸中央教会
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キリスト教をはじめて認識したのは小学生の頃だったと思う。
当時、テレビで『世界名作劇場(ハウス世界名作劇場)』というアニメのシリーズがあった。
キテレツ大百科のあとに「小公子セディ」とか「赤毛のアン」とか「ピーターパン」があって、その中のひとつ、「ポリアンナ物語」という作品があった。
少女の底抜けなポジティブさが周りの人々を明るくしていく、というのが物語の大筋なのだが、そのポジティブさの根底にあるのが彼女の父親の言葉だ。
「いいかいポリアンナ、神様が800回も“楽しめ”とか“喜べ”とか言われているのは、私達みんなが喜ぶ事を望んでいらっしゃるからだよ。これからは聖書の中だけではなく、毎日の色々な事の中から喜びを探してごらん。きっとどんな事にも、良かったと思える事があるはずだよ。」
父親は聖職者であり、聖書の中には楽しめとか喜べといった記述が、800以上も出てくるということをポリアンナに教え、
「お前とお父さんとどっちが良かったを多く探せるか競争しよう。」と提案する。
日々の暮らしの中で色んなポジティブなものを他人と発見、共有し、その過程でポリアンナの叔母をはじめ、周りの様々な人々が幸せになっていく。
僕はこのアニメが好きだった。
このアニメの影響なのか、僕はキリスト教に対して子供のころから好感を持っていた。
学生になって本を読むようになると、キリスト教をある程度知らないとわからない表現が多くなってきて、少しずつ聖書を読むようになった。
西洋文学どころか自国の小説にもキリスト教はよく出てくる。
遠藤周作はもちろんのことだが太宰治なんかも顕著だろう。
「駆け込み訴え」はユダがイエスを売る場面の作品だ。
キリスト教は、文学はもちろん、ゲームや漫画にも出てくるし映画にも出てくる。
なので、キリスト教徒じゃない人も、知らない間にぼんやりした知識が溜まっていって、門前の小僧状態になる。
そうなってくると、キリスト教ってこんな感じなんだろう、と高をくくってしまうのだ。
多くの人は、この門前の小僧状態から踏み出さない。
これは実にもったいないと思う。
僕ももちろん門前の小僧ではあるのだが、自分から学びたいという積極性があるので、聖書を読み、自分なりにだけれど教えの一部を生活に利用している。
そのうちのひとつは、いわゆる「山上の説教」の中の教えで、
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、庫に納めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養って下さる」
この部分だ。
心配するなと。安心しろと。
何かで心配になった時、イエスの思い煩うなという言葉が胸に響く。
神様にお任せしちゃえばいいんだと、心が軽くなって、足元の幸せに気付けるようになるのだ。
心配どころか一転、幸せや楽しいことに気付けるモードになる、これはほとんどチートだろう。
キリスト教を知っている人は、他の人と比べて人生をチートモードにできるんじゃないかと考えるようになった。
これは大きな気づきだと思う。
山上の説教だけでこれである。
800回もの“楽しめ”や“喜べ”のためのチートモードが、聖書の中に教えとして、ふんだんに書かれているのだ。
「良かった探し」はそれらを見つけるためだったり、聖書の根源的なものを感じるための行為なのではないかと思う。
今日も僕は心配事は神様に預けて、人生を楽しんだり喜んだりしたいなと思う。
*ポリアンナ物語は現在、アマゾンプライムで視聴可能です。
画像出典:日本アニメーション株式会社公式ウェブサイトより
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