カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1:48)
今日の福音はマリアのエリサベト訪問の場面です。
教会はロザリオの喜びの神秘第二の黙想でマリアのエリサベト訪問を祈ってきました。
ですから私たちにはマリアのエリサベト訪問は喜びのイメージがあります。
この二人の女性の出会いは、確かに最後は喜びであったと思いますが、最初は喜びではなく不安を抱いた女性の出会いだったと私は思うのですね。
というのは、まだ結婚していなかったマリアは天使ガブリエルから男の子を身ごもったことを告げられ、驚きながらも「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりましように。」(ルカ1:38)と信仰を表明したものの、未婚であったマリアが妊娠していることが発覚すれば、姦通を疑われ当時の律法では石殺しにあわなければなりませんでした。
ですからマリアの前には恐ろしい状況が待ち構えていたわけです。
このようなマリアが喜んでエリサベトにこのことを伝えに行ったとは考えにくく、むしろこれから自分はどうやって生きて行けばいいのだろうと、非常に不安な気持ちで相談に行ったのでしょう。
一方エリサベトも実は不安を抱えていたと思うのですね。
福音書によると天使ガブリエルは夫ザカリアに妻のエリサベトが男の子を身ごもったことを告げたとき、年を取った自分たち夫婦にどうしてそのようなことがあるのかと疑いました。
そのときガブリエルから「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ1:20)
と言われ、その時から話すことができなくなりました。
その場に居合わせなかったエリサベトにはその理由が分からず、夫ザカリアは一生この状態が続くのではないかと毎日が不安であったと思います。
ですからマリアのエリサベト訪問は将来に不安を抱いた生身の弱さを持った二人の女性の出会いだったと思うのですね。
そしてこの二人はこれからお互いどうやって生きて行けばいいのか話し合ったことでしょう。
その結果『自分たちに残された道は神の導きを信じることだけだ。お互い不安を乗り越えてしっかり生きて行こう。』と固く誓い合ったことでしょう。
そしてエリサベトは「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカ1:45)とマリアを称賛し、マリアも「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1:48)と宣言しました。
その理由は「力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:49)
つまり神が自分に困難を乗り越えて生きる力を与えてくれたから、わたしにはこれから恐れるものは何もない、と最初のお互いの不安は喜びへと変えられたのですね。
今日の私の話は福音書には書かれておらず、あくまでも私の想像です。でもイマジネーションを用いて福音書を読むことも非常に有益だと思います。
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