カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れていかれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハネ21:18~19)
皆さんの中には、この福音の言葉に中に、自分の将来の姿を感じ取っている方もいるのではないかと思います。
確かに、若いときは自分のしたいことをして、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると今までできていたことができなくなって、子どもの世話になり、場合によったら、行きたくない施設に連れていかれることもあるでしょう。
しかしどのような姿であれ、それが本来、自分が望まないものであったとしても、最後まで神の導きを信じて品位と礼節を保ち、そのことによって神の栄光を現していきましょう。
江戸時代、播磨に滝瓢水(ひょうすい)という俳人がいました。
生涯無我、無欲の人でした。彼は、「浜までは海女も蓑(みの)きる時雨(しぐれ)かな」という句を残しています。
ある日、瓢水の高名を慕って一人の僧が訪ねて来ましたが、あいにく留守で、どうやら風邪をひいて薬を買いに行ったらしい。
その僧は「さすがの瓢水もいよいよ命が惜しくなられたか」と、半ばあざけるかのように言い捨てて立ち去りました。
家に戻った瓢水はそれを聞いて、この句をその僧に届けたのですが、その句を見た僧は我が身の知恵のなさを恥じ、再び瓢水のもとを訪れ詫びたそうです。
決して命が惜しくて薬を買いに行ったわけではなく、どうせ死ぬのだからと命を粗末にするのでもなく、与えられた命を最後まで美しく保ちたいという思いをこめて、「浜までは海女も蓑きる時雨かな」と詠んだのです。
浜に行けばどうせ濡れるのだから、雨が降ったからといってどうということはない、そのまま濡れて浜まで行けばよいというのではなく、雨が降ったら我が身をかばって蓑をまとい、海女は女性としての品位を保ちながら浜まで行くというのです。
この「浜」は、私たちの生涯の最期を示していると言えます。
どうせ仕事を辞めたのだから、どうせ老い先短いのだから、と言って投げやりになるのではなく、前向きに生きて、与えられた命を美しく輝かせながら、生涯の最後の日まで「蓑を着て」神への信頼と感謝の内に品位と礼節を保ちながら、「人生の浜」まで歩んで行きましょう。
いい加減な「どうせ」の判断がいけないのは、お年寄りだけではなく、若い人にも当てはまります。
「どうせ」はすべきことから逃れる自分を欺くセリフです。
大きな課題に直面したとき、そこから逃げる理由が「どうせ無理」の理論です。
どうせ無理ではなく、「それならば、こうしたらできる」と発想を切り替え、勇気と希望を持って最後の最後まで努力することによって、あらゆる人生の可能性が開けることになります。
お年寄りでも、若い人でも、この浅はかな「どうせ」「どうせ無理」の理論が全てを腐らせ、あらゆる可能性を奪うことになります。
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