カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「夫ヨセフは正しい人であった」(マタイ1:19)
正しい人とは、どのような人のことでしょうか。
正直な人、嘘をつかない人、社会規範を守る人など、人によって様々なイメージがあると思います。
それではマタイが伝える「夫ヨセフは正しい人であった」という言葉は何を意味するのでしょうか。
もしヨセフが当時の社会規範であり、最高の掟とされた律法を遵守する意味での正しい人であったならば、結婚前に聖霊によって身ごもっているマリアに姦通を疑い、マリアを罪の女として告訴したことでしょう。
しかしヨセフは正しい人であったが故に、マリアのことを表ざたにするのを望みませんでした。
もしマリアのことが表ざたになったならば、マリアには律法によって石殺しの刑が課せられるからです。
従ってヨセフの正しさは、決して当時の最高の掟であった律法を遵守する正しさではなく、弱い立場の人を守る意味での正しい人であったのです。
このヨセフを教会は伝統的に「義人ヨセフ」と呼んできました。
さて、イエスは宣教活動に出る前ナザレで約30年間、私たちと同じように両親の後姿を見ながら成長してきました。
福音書におけるイエスの姿には、このヨセフの影響を感じさせる箇所があります。
例えば、律法学者やファリサイ派の人たちが、姦通の現場で取り押さえられた女をイエスの前に立たせ、律法によるとこのような女は石殺しに当たるが、あなたはどう思うかとイエスと論争して、イエスを訴える口実を求めようとします。
しかし、イエスは論争には加わらず、かがみ込んで指で地面に何か書き始めます。
もしイエスがこのとき論争の罠にはまって彼らと議論したならば、恥ずかしさと恐怖で蒼ざめる女性の顔を見ることになります。
そうなると、ますますこの女性を苦しめることになります。
しつこく問い続ける人々に対してイエスは身を起こして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言って再びかがみ込みます。
やがて一人二人と去り、誰もいなくなった後、イエスは身を起こして女性の顔を見て非常に単純な対話します。
「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、「『主よ、だれも』と言うとイエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」(ヨハネ8:1~11)
私にはこのイエスの背後に、結婚前聖霊によって身ごもっていたマリアに、恥ずかしい思いをさせようとしなかった、義人ヨセフの姿が見え隠れするのです。
イエスは弱い立場の人を守るとき、しばしば愛をもって当時の掟を破りました。どんな掟よりも大事なのは、人間一人一人だからです。
19世紀に登場した聖人で、ヴィアンネーという司祭がいます。ある日、彼が司牧するアルスの村で、一人の人が橋から川に身を投げて自ら命を絶ちました。
当時の教会は非常に厳しく、このような人は教会で葬式ができませんでした。しかしヴィアンネーはその人のために葬儀ミサをすると言うのです。「教会では自殺した人の葬儀ミサはできないのに、なぜあなたはそれをするのか」と抗議する信徒に対して、「それでは、その橋から川まで何メートルあるのか」と彼は信徒に問い返します。その信徒がその長さを答えたところ彼は、「その人は橋から身を投げて川に落ちるまでの間に回心したかもしれない。だから私は彼のために葬儀ミサをします。」と答えたのでした。
何とこの聖人は、教会がもっとも厳しかった時代に教会の掟を破ったのでした。でも彼は神の掟を守りました。
神の掟とは、全ての人の救いを望んでおられる神に、私たちも協力するということです。
人間や社会の掟は時代に応じてよく変わります。しかし神の掟は決して変わることがないのです。
来週は降誕祭です。救い主の誕生を祝うと同時に、一人一人の小さな命、特に中絶等によって誕生前の小さな命が失われることは、決して神のみ心ではないという、永遠に変わることのない真理を心に刻みながら、義人ヨセフとともに降誕祭を迎えましょう。
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