カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「あなたがたは地の塩…世の光である。」(マタイ5:13、14)
人間の生活に塩は欠かせないものです。塩は食物に味をつけるだけではなく、食物の腐敗を防ぎ発酵を促します。
その私たちにイエスは地の塩、世の光となることを求められます。
即ち、神と人に奉仕し、社会を明るく照らす使命を受けているのですが、その使命に生きるためには、自分の心に塩を持って自分をコントロールし、心をいつも光で照らしておかなければならないのです。
人間には欲望というものがあります。欲望は人間の本能です。
多くの富が欲しい、高い地位と名声を手に入れたい、その他様々な欲望を持っています。
確かに、そのような欲望がエネルギーとなって科学技術の進歩、高度な文明を築いてきたことは否めませんが、同時に人間の欲望によって戦争が繰り返され、自然環境が破壊されてきたことも事実です。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、「富は海水に似ている。飲めば飲むほど渇く。名声についても同じことが当てはまる。」と言っています。
しかし、神は私たち人間に真逆な本能を与えてくれました。それは同情、お互いへの思いやり、利他の心です。
心ある人であれば誰しも人のために何かしたい、親切にしたい、優しく接したいという本能をもっており、この本能が欲望と共に人間の社会を発展、進化させてきた大きなエネルギーなのです。
このことは、日本で地震を始め、多くの災害が起こった時、無数の人がボランティアとして奉仕していることからも理解できます。
それはお互いの魂に絆を感じていることの証拠で、人の悲しみは自分の悲しみ、人の喜びは自分の喜びであり、これこそ神が人間に与えてくれた本能なのです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩があります。
教科書にも載るくらいよく知られた詩ですが、この詩は自我を抑え、人のために何かしたいという日本人の心情をよく表しており、今なお多くの人の魂を揺さぶる詩でもあります。
皆さんもよくご存じかと思いますが、今あえて現代文で引用します。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分の勘定に入れずに
良く見聞きして分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の 小さな萱葺の小屋にいて
東に病気の子どもがあれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人があれば 行ってこわがらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくの坊と呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
自分の心に塩をもって自我を抑え、心の光に照らされて人のために何かしたいという思いがこの詩によく表されています。
宮沢賢治は日蓮宗の熱心な信徒でしたが、イエス・キリストがこの詩を詠んだとしても、私には何の違和感もありません。
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