カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分に数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である…それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(使徒パウロのコリントの教会への手紙12:12、22)
パウロは体の譬えを使って、教会に無駄なものはなく、多くの働きが必要とされていることを分かりやすく説明し、更に体の中で弱く見える部分こそが最も大切な部分であることを強調しています。
ところで、パウロより360年も前に生まれた中国の荘子は、「無用の用」という思想(一見して役に立たないと思われるものが実は一番役に立っている)の中で次のような話を残してパウロの言葉に花を添えています。
石(せき)という大工の棟梁が斉という国を旅して、曲轅(きょくえん)という地方を通りがかった時のことであった。
そこでは巨大なクヌギの木が神木として祭られているのであった。
その大きさと言ったら、何千頭もの牛が木陰に憩うことができる大きさであり、幹の太さは百かかえほどもあり、高さは山を見下ろすほど、地上から七、八十尺のところで枝分かれして、枝一本で船が作れるほどの大きさであった。
その枝が何十も広がっていたのであった。大勢の人がその木を一目見ようと集まり、石の弟子たちも息を飲む思いでその大木を見上げていた。
ところが石はまったく気にする様子もなく、その木の前を通り過ぎるのであった。
弟子たちは驚いて「私たちはこれほど立派な木を見たことがありませんのに、どうして棟梁は見過ごしてしまうのですか」と尋ねたところ、石は「お前たちはこの木がどうしてこんな大木になったか分かるか。それはこの木が役に立たない木だったからじゃ。この木が役に立つ木であったならば、とっくの昔に切り倒されて何かに役立っていたことであろう。しかしこの木で船をつくれば沈んでしまうし、棺桶をつくればすぐ腐ってしまう。家具にも柱にもならん。まったく何の役にも立たん無用の木だったからじゃ。だからこそ今ではこんな大きくなって、この木の下で多くの動物や人間を憩わせることができる神木になったのじゃ」
さてその夜、そのクヌギの木が石の夢枕に現れて言った。
「この世では人であれ物であれ、みな役に立とうとして自らの命を縮めている。しかしわしは今まで一貫して無用であることを願ってきた。天寿を終えようとする今、ようやく無用の木になることができた。おまえたちには無用であっても、わしにとっては真に有用なのじゃ。(石に向かって)おまえのように有用であろうとして、自らの命を縮めているものこそ、実は無用の人間なのじゃ」
一見して役に立たないと思えるものが、実は最も役に立って私たちの支えになっている。
私たちの周囲をよく注意して見回してみましょう。皆さん、何か心当たりがありませんか。
今日の黙想のヒントです。
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