カトリック神戸中央教会

Kobe Central

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赤波江 豊神父
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黙想のヒント 四旬節第2主日A年

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:2)

旧約新約聖書を通して登場する神の使いは、どういう訳か皆白い服を着ています。
これは人間の想像なのでしょうか、あるいは何か文学的な表現なのでしょうか。
今まで何人かの信徒から、病気や事故で意識不明になったときの話を聞いたことがあります。
その内容は、彼らはまず夢の中で道を歩いていたら間もなく門が見えた、その門の傍に白い服を着た人が立っていて、その人から「あなたは、まだここに来なくていい」と言われて目が覚め意識を回復したという話です。

しかし、このような話は私だけではなく、実は世界で共通して語られているのです。
しかも全て共通点があります。それは道を歩いていること、門が見えること、そして必ず白い服を着ている人がいることです。
ですから、聖書に登場する神の使いが皆白い服を着ているのは、決して人間の想像でも、文学的な表現でもなく、数千年前から人間の歴史とともにあった人間の「原体験」なのです。
ですから夢や幻の中で出会う神の使いが、なぜ白い服を着ているのか、それは神秘なのです。

神秘ですが、数千年の昔から人間は見てきたのです。
同じように人間の存在も神秘なのです。今暦の上では春でも、まだ寒い日が続き私たちは分厚いコートを着ています。
しかし、暖かくなって復活祭の頃にはそれまで着ていた分厚いコートを脱ぎ捨てます。
死とはこのようなものです。また人間はコンピューターを内蔵した肉体という着ぐるみを身にまとっているような存在にも例えることができます。
コンピューターには電源が必要で、その電源が切れたときが死です。
死によって肉体という着ぐるみは朽ち果てますが、命の電源が切れても、生涯の活動のメモリーは魂に残るのです。

これは、あくまでも一つの譬えに過ぎないのですが、究極的に人間の魂はある種の生命エネルギー体であって、最終的にその本質は理性の力では表現できないのです。
しかし人間には直観というもう一つの能力があります。
信仰とは一種の直観なのです。私たちの誕生、友人、就職、結婚、死など人生の出来事や出会いは、考えてみれば大変な確率の上に生じています。
最初は偶然だったと思った出会いも、あれは出会うべくして出会った、必然だったと深く感じることがあります。

そうして、人生は学校であって、私たちは人生で何かを学び、深めるためにこの人生という学校に送られたと考えれば、人生におけるあらゆる出来事や出会いは決して偶然ではなく、神が用意してくれたもの、導きであったと考えることができます。
そうであれば、私たちは家庭でも、教会でも、皆導かれて意味があって共にいるべくしているのであり、この世の着ぐるみを脱ぎ捨てた後も、私たちは共にいるべくしているのだと。
この生の連続性に対する確信が復活信仰なのです。

逆説的な言い方をすれば、死は私たちに与えられた最大の救いと言えます。
死があるからこそ、私たちは人生と名付けられた、このつかの間の歳月を懸命に生きることができるし、また懸命に生きなければならないのです。
死を自覚して生きることと、死を恐れることは全く違います。

人生の締めくくりであり、完成である死に対して自覚的に生きることは、一人一人に与えられた人生をよりよく生きることにつながるからです。

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