カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「父親は息子をみつけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)
今日の放蕩息子の話しは、福音書の中で罪人の回心を描く最も美しい譬えです。
話しのタイトルは放蕩息子ですが、主人公はあくまでも父親です。
即ち、どれほど罪を重ねても、過ちに陥っても、ただ赦すことだけを考えている神の姿を、父親を通して示しているのです。
父親に背いて放蕩の限りを尽くした挙句、自分の惨めさを恥じて、父親のもとに帰る息子を遠くから見つけると、自分の方から走り寄って、首を抱き、接吻し息子のために宴会を開きます。
即ち、この父親は息子が回心する前から既に赦すことを願っているのです。
この息子の話は分かりやすいのですが、分かりにくいのは兄の姿です。
兄自身が言うように、彼は一度も父親に背かず、まじめに働いてきたのに、友人と宴会するために子ヤギ一匹もくれなかったと言って怒り、家に入ろうとしません。
そこで父親は出てきて兄をなだめます。
ところで、兄の言い分は理解できますが、少し矛盾がありますね。
弟が父親に自分が受け継ぐはずの財産を要求したとき、父親は弟だけにあげたのではなく、二人の兄弟に分けてあげたのです。
即ち、兄は財産を自由に使う権利を既に持っていたのです。そのため、父親は言いました。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(15:31)
更に、兄は大きな過ちを犯しました。弟のことを「あなたのあの息子」という冷たい言い方をします。
つまり、一度家を出て行った弟は、彼にとって他人であり、もはや兄弟ではないのです。だから帰ってきても喜ばないのです。
実は、この兄弟は二人とも父親から離れたのです。弟はわがままから父親を離れました。
兄は弟への妬みから父親を離れました。この二人に対して父親の方から近づくのです。
弟に対して「走り寄って」(15:20)迎え、兄に対しては「出て来てなだめた」(15:28)のです。
確かにこの兄弟の罪に代表される、わがままと妬み、この二つは罪の根源であり、多くの罪はこの二つの罪から発生します。
しかし慈しみ深い神はこの二つの罪に対して自ら近づき、受け入れるのです。
このたとえ話に対して、自分はわがままなところがあるから弟に当たるとか、自分は少し人を嫉妬するところがあるから兄に当たるとか言うのは簡単で楽しいでしょう。
でもそれでこの話が終わったらあまり意味がありません。
この話の主人公は弟や兄ではなく、あくまでも父親です。
私たちも、いろいろな理由で自分から離れた人に、自分の方から近づいて受け入れることができるか、そこにこの話の大きなテーマがあり、チャレンジが求められているのです。
確かにこのことは簡単ではないでしょう。
でも信仰はスポーツではないのです。神は結果ではなく、私たちの努力を見ておられます。
反対にスポーツは結果が大事であり、結果が全てです。
しかし、信仰は結果ではなく、プロセスなのです。
いい結果が得られなかったとしても、神が私たちの日々の努力、即ち、様々な理由で私たちから離れた人たちと和解したいという思いを、恵みに変えてくださいますように。日々の小さな努力を信じましょう。
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