カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)
マリアは神の母であると同時に、私たちと同じ人間です。
私たちが人生において不可解なこと、理不尽なことに直面するのと同じように、マリアも私たちと同じ試練に直面しました。
そのマリアの生涯を象徴する言葉が、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」ことでした。
「これらの出来事」とはイエスの生涯に関することです。
カトリック教会には、伝統的なロザリオの信心があります。ロザリオとはマリアを称賛する祈りではなく、マリアと共にイエスの生涯を黙想する祈りです。
そうであれば、常にイエスのことを思い巡らしていた、マリアの生涯そのものがロザリオであったと言えるでしょう。
ある日、神殿でシメオン老人が幼子を祝福した後、マリアに「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:34~35)と言いました。
マリアはこの言葉をこそ思い巡らしていたことでしょう。
やがて、この言葉はイエスの十字架の死によって、現実のものとなってしまいました。
しかし、永遠に輝くマリアの真の優しさは、生来というより、むしろこの大きな悲しみと試練の中から生まれました。
愛する妻と子どもに先立たれたある男性は、このマリアの思いを、次の言葉で代言しています。
「愛する者を一人ひとり失うたびに、私はたくさんの涙を流してきました。残される者は辛いですね。しかし、たくさん涙を流した分、天国が近づいてきました。愛する者を一人ずつ見送るたびに、天国が近づいてくるのですよ。これは、多く愛する者を失ってきた人の特権です。涙の分だけ自分の死を見つめやすくなりました。今の私にとって、天国はたいへん身近な存在です。」
苦労をして優しくなる人と、同じ苦労でも、そのことで人間性が歪む人がいます。
同じ苦労であっても、向き合い方によって、生き方も変わります。
苦労の責任を人に押し付けながら、生涯不平不満で生きるのか、あるいは苦労の中に意味を見出し、そこから愛と感謝、思いやりを育み、円熟した人生を送るかは私たちの選択次第です。
私自身、今までたくさんの人と接して、深い感銘を受けることがあります。
柔和で優しい笑みを浮かべることのできる人ほど、実は、多くの試練と喪失体験をもっておられることに気付かされるのです。
そのような人は、決して過去の苦悩を悔やまず、それをスッテプとして、そこに人生を生きる意味と価値を見出してきました。
そして、そのような人は同時に、深い感謝と満足感をもって、自分の人生の旅路を終える業をも知っているのです。
海援隊の「贈る言葉」という歌に次の一節があります。
♪「悲しみこらえて微笑むよりも 涙かれるまで泣く方がいい
人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」♪
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